2012年05月15日
年寄りの冒険
ある事実を語ろう。赤褐色のブラウスに、黒いスカート。85歳ぐらい、小柄だが、背筋はスラリ。東北の小さな町の夏の午後、町議会に行くところでした。「年寄りの楽しみは政治です。ボランティアも趣味もいいけど、議会の傍聴が一番面白い」とおっしゃる。彼女は、その少し前、関東から一人で引っ越してきた。「娘や孫はそんな年でと反対、でも、そんな年だからこそ、行ってみたい町で一人暮らしがしてみたかった。。」83歳の時、入っていた老人ホームを退去。「入居時は病気をしていたけど、その後、元気になって、、、」、、思い切って出ることに。多くの人が言ったそうです。「何も、その年で出るなんて、、」「でも、この年になったからこそ、思い通りにしたかった。自分で決めて、自分で自分を励ますような、そんな生き方をしてみたかった。。。」福祉の進んでいる町に住みたいと思って、町での暮らしが分かるシンポジウムを聞いた後、町営住宅を借りて願いがかなった。寒い土地、雪かきもしなければならない、大変だけど、それも面白い。ボランティアで友人ができ、その地の方言にも慣れ、議会の傍聴を始めたのでした。。。「転居して良かった。年寄りだからと、ちんまり生きているわけにいきません。人生の残り時間が少ないからこそ、冒険しなくては!やった者勝ちですよ。。。」と。。。年寄りに必要なものは、冒険心ではないか、と私も思う。どこで死んでもいいじゃあないか、冒険には安全への配慮が不可欠ですが、私の場合は、そう惜しい命でもありません。もう、少しして、タイで、生活の冒険をしようと、強く思うのでした。
2012年05月13日
名字の言より
今日は博愛会の課長の主催で、鈴鹿山脈の御在所山(1209.8m)の隣にそびえる国見岳(1171.5m)へ登山にいくのに同行できることになり、朝7時に車に拾ってもらい、、昨日は風が強く5月になっても日本の何処かで雪が降ったというニュースもTVで言っていたので、合羽持参ででかける予定です。。どうも高所のため相当寒くなりそうである。地上にいても風をひいたのか鼻水がでたので、警戒していかねばいけない。。。それで、昨日の「聖教新聞」の1面の「名字の言」より書き写して提供しておきます。。。「孔明(こうめい)はつまらぬことをしたものだ、大国に仕えたらよかったのに」。曹操の魏に仕えた諸葛孔明の知人たちは、そう思っていたろう。ー中国史の宮川尚志博士は言う(「諸葛孔明」講談社学術文庫)。諸葛一族には、魏や呉で高官に就(つ)いた者もいた。三国志時代の価値観では、家系の存続が最優先で、むしろ当然の行動といえる。だが孔明は、嫡子・嫡孫までも、小国の蜀に殉じていった。「丞相(じょうしょう)病あつかりき」-志半ばで五丈原(魏の司馬と蜀の孔明との最後の決戦場になった地)に倒れた孔明の「悲運」を思い、詩人・土井晩翠は詠んだ。だが、孔明は、決して「不幸」だったのではない。先帝・劉備とともに願った漢王朝の復興へ、真っ直ぐに生きぬいたからだ。信念の人生は報われてほしい。だが、もっと大事なのは、信念を貫(つらぬ)いたかどうかだ。日蓮大聖人は、流刑の地の佐渡で開目抄(かいもくしょう。日蓮宗では大切な教えを説いている書物としている)を著し、妙法を流布する法華経の行者が、なぜ迫害に会わねばならないかを詳細につずられた。その上で叫ばれた。「詮(せん)ずるところは天も捨て給え、諸難にもあえ、身命を期とせん」と。広宣流布の道を貫く。そのこと自体が最大の誉れ、幸福であるとの大宣言と拝される。妙法と、師と共に生き抜くほどの幸福はない。この気概で、、、、2013年の5月3日へ。(5月3日は創価学会創立記念日なのです)、、、、、、毎日こんな記事を読んでいますと、たまに、うんざりしてしまいます。いつも、、、、師だ、広宣流布だという新聞であります。。。。公明党を支えています。創価学会の新聞であります。最近はTVでもCMを流しています。世界に広がるSGIというのです。。。。。まー
これをかいておいて、本日はお出かけであります。山歩きの後は片岡温泉にも入ってきますが。。。。創価学会員でない人がこれを読むと、少しは驚かれるのじゃあないかと思います。聖教新聞は池田大作氏を讃え続けます。いつもいつも、広く、民衆に法華経を述べ、伝えよと言います。これが広宣流布(こうせんるふ)という行動です。創価学会に入会して貰えるよう働き続けよと会員には言います。「入会」であって、「入信」ではありません。まず、会合にでてもらい、そこで法華経の勉強や信者の人ビトのことどもを知ってもらう、、、苦しみも分かちあっていく、、励ましあい、生きる意味を考え、、発表し、勇気を学び、、、、信念を貫いていく。。。。自然にそうなります。。日蓮さんのように、、、、日蓮さんと生きようとも思います。
これをかいておいて、本日はお出かけであります。山歩きの後は片岡温泉にも入ってきますが。。。。創価学会員でない人がこれを読むと、少しは驚かれるのじゃあないかと思います。聖教新聞は池田大作氏を讃え続けます。いつもいつも、広く、民衆に法華経を述べ、伝えよと言います。これが広宣流布(こうせんるふ)という行動です。創価学会に入会して貰えるよう働き続けよと会員には言います。「入会」であって、「入信」ではありません。まず、会合にでてもらい、そこで法華経の勉強や信者の人ビトのことどもを知ってもらう、、、苦しみも分かちあっていく、、励ましあい、生きる意味を考え、、発表し、勇気を学び、、、、信念を貫いていく。。。。自然にそうなります。。日蓮さんのように、、、、日蓮さんと生きようとも思います。
2012年05月12日
タイ仏教と日本仏教
タイの仏教は小乗仏教と言われます。出家するのが、信仰の本来の姿です。一方、日本の仏教は大乗仏教です。必ずしも、出家しなくても在家(坊さんにならず、、日常生活を送りつつ修行する形態)でいいのです。出家という生活形態に閉じてしまうことへの疑問がある。悟りを拓くとかいって、社会や他者から離れてしまうと、「それはどうか!?」というツッコミになる、仏教は「知恵と慈悲の獲得、実践」のはずで、社会と関り、苦悩の中に身を置いてこそ本当の仏教の姿といえる。。。日常生活を送る中で、「とらわれないこと」拘泥しないこと、、日常生活の自分の心と体を調える方に重心を置く。。。その結果、政治改革やら社会改革とかは疎かになる。。仏教はいずれも真剣に道を求める者にのみ、門を開く。。。タイ・カンボジア・ラオスなどの上座部仏教は、200を越える戒律(仏教者の生活規範)を厳格に守ることで、その人の聖性、スピリチュアリティが周りの人に自然と影響を及ぼしていく。
それ故に、信者さん達がお坊さんを尊敬するという関係になっている。日本はかつて、1872年(明治4年)の太政官布告で「僧侶、肉食、妻帯、蓄髪など勝手たるべし」となって以来、寺の世襲が公になり、結婚も、、で仏教=寺が家業化した。そうして、発心(仏道を志すこと)は薄れ、、世俗化、時の権力者に骨抜きにされていった。日本の僧侶は5戒(不殺生戒、不ちゅう盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)も守れず、坊さんのなすべき仕事も分からなくなっていった。、、各宗派は、資格さえ取れば住職になることを認め、葬式こそが仏教の役目になっていった。さーここらで、仏教においても多少の改革は許されるであろう。何百万円もする戒名も、広大なお墓も、卒塔婆も、いりません。葬式もいりません、おまけに坊さんもいりませんとなったのも頷けるのである。今、お通夜もしないで、死んだ所から火葬場へ直行する「直葬」が増えているといいます。最後に「骨」が残されますが、、骨を預かる人も減ってきたといいます。火葬業者の棚に並ぶ引き取り手のない「遺骨」の箱がよくTVでも流されます。。。ニーチェなら「神は死んだ」というでしょうが、日本では「坊さんはあまり信用されて無い」・「仏教は死んだ」といっては申しわけない気がしますが、少なくとも、貧乏で、かつ忙しく日頃のお布施も付き合いもしませんので、そういう人は自然と檀家(お寺のスポンサー)から外され、救済外・視野外へと追い払われていきます、、。坊さん屋が増えたせいであります。貧乏な私は大寺とも、昔からの伝統宗教とも関係がありません。創価学会員ですのでね。。。また、その創価学会からも、落ちこぼれそうなのですがね、、、最近は世界各国、各地、各大学、研究センターからの勲章受勲の報道が多い「聖教新聞」ですが、世界と繋がっている姿は素晴らしいです。。ササヤカニ自らの信仰心を道ずれに、、、心は調え、執着心を小さくし、物事に拘り過ぎずに生きていこうと思うばかりでいます。。。。が、勝手な生き方だと垂井町の田舎に住む世間の人は見るようにも感じる時もあるのですが。。。。まーゴーイングマイウェイでしょう。。。
それ故に、信者さん達がお坊さんを尊敬するという関係になっている。日本はかつて、1872年(明治4年)の太政官布告で「僧侶、肉食、妻帯、蓄髪など勝手たるべし」となって以来、寺の世襲が公になり、結婚も、、で仏教=寺が家業化した。そうして、発心(仏道を志すこと)は薄れ、、世俗化、時の権力者に骨抜きにされていった。日本の僧侶は5戒(不殺生戒、不ちゅう盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)も守れず、坊さんのなすべき仕事も分からなくなっていった。、、各宗派は、資格さえ取れば住職になることを認め、葬式こそが仏教の役目になっていった。さーここらで、仏教においても多少の改革は許されるであろう。何百万円もする戒名も、広大なお墓も、卒塔婆も、いりません。葬式もいりません、おまけに坊さんもいりませんとなったのも頷けるのである。今、お通夜もしないで、死んだ所から火葬場へ直行する「直葬」が増えているといいます。最後に「骨」が残されますが、、骨を預かる人も減ってきたといいます。火葬業者の棚に並ぶ引き取り手のない「遺骨」の箱がよくTVでも流されます。。。ニーチェなら「神は死んだ」というでしょうが、日本では「坊さんはあまり信用されて無い」・「仏教は死んだ」といっては申しわけない気がしますが、少なくとも、貧乏で、かつ忙しく日頃のお布施も付き合いもしませんので、そういう人は自然と檀家(お寺のスポンサー)から外され、救済外・視野外へと追い払われていきます、、。坊さん屋が増えたせいであります。貧乏な私は大寺とも、昔からの伝統宗教とも関係がありません。創価学会員ですのでね。。。また、その創価学会からも、落ちこぼれそうなのですがね、、、最近は世界各国、各地、各大学、研究センターからの勲章受勲の報道が多い「聖教新聞」ですが、世界と繋がっている姿は素晴らしいです。。ササヤカニ自らの信仰心を道ずれに、、、心は調え、執着心を小さくし、物事に拘り過ぎずに生きていこうと思うばかりでいます。。。。が、勝手な生き方だと垂井町の田舎に住む世間の人は見るようにも感じる時もあるのですが。。。。まーゴーイングマイウェイでしょう。。。
2012年05月11日
仏教に思う
私はかの池田大作先生の指導される創価学会員に2002年7月7日に入会したのだった。七夕の日であり、厳粛に垂井町表佐村の同志の皆さんに祝っていただきました。池田先生の言葉から書かれた色紙は、10年日記張の表紙の裏に貼ってあります。日蓮さんの啓いた法華経を学習する気もありましたし、創価学会の思想・歴史・変遷も学んでいきました。当時の私はこの支えが無ければ、今の生活へと続かないまま、空中分解していたかもしれません。子供はどこかの施設に入れて、私は子育て逃亡者として、やや惨めな、今以上に寂しい生活を送っていたでしょう。離婚以来父子家庭になり、、幼い子を育てつつ、仕事しなければなりませんでした。父はすでに3年前に亡くなって、子供の世話をしてくれる肉親という人を失っていました。(父の方が私の子の世話に熱意を持ってくれました)母はその頃から、認知症の傾向が出てき始めていたのだと思いますが、子供を世話してはくれませんでした。認知症は、夫を亡くした妻のような人に出やすいのです。夫に寄りかかって、生きてきた受動的な傾向の強い婦人は罹ってしまう危険性があるようです。母は日頃から本を全く読まない、読めない人でした。頭脳活動の鈍い、昔気質の女性でした。子供が生まれた時には大変喜んでくれたのでしたが、当時では、興味・関心を示さなくなっていました。息子がいじめるとも愚痴を言ったこともありました。その頃から認知症ははじまっていたのでしょう。母、75歳頃、僕は保育園の先生・小学校の先生にも救いを求めていましたが、癒されず、満たされず学会の知り合いの人の勧誘に素直に従っていきました。救いでした。子供を毎日食べさせる、洗濯してやり、1日置きにまる1日仕事に出ていくタクシー稼業をしていました。24時間勤務というパターンの勤務で、朝5時には家を出、1時間かけて名古屋の会社に到着、翌日朝5~6時ごろになって帰宅。その日は休んで、また翌朝、出かける。。。隔日勤務というものです。。。幼い子供をたった1人きりにしておき、学校へ行かせ、帰宅させ、食事も自分1人で作り置いたのを食べさせるという生活を繰り返したのでした。息子の事が心配でたまりませんでした。学校から帰ると、誰もいない部屋の鍵を開け、ご飯を食べていたのです。息子を思うと、涙以上に申し訳なさを感じていました。今になって、当時の習慣だということがあります。息子は帰宅しても「只今」を言いません。こそーっと、無言のままドアを開けて入ってきます。注意していないと、何時帰ったのかわからないくらいです、この無言は、実は、幼い頃、学校から帰っても誰も迎えてくれなかった寂しい環境に晒されていた証拠だと思います。今になって、、「挨拶するんだよ」と教えても、「あの頃の癖だ」と言いました。治りません。1人息子だったせいもあり、寂しさ・怒りをぶつけ合う兄弟がいません、息子は1人前の大人に成れるのか、心を病んでしまわないか、不安で、悲しいほど苦しい思いに駆られたものです。。。これは、世の父親よりも、母親の心模様に近い感じを持っていたことのように観察されます。。そうして、もともと気持ちの優しい私(自分の評価ですが)は、世の母親の心になることだと、思うようになっていきました。母がいなくなってしまったのですから、私が母親の役も兼ねることが是非とも必要だと思ったのでした。私は、父親と、母親の役割を自らに課していきました。父と息子の男同士の1対1の関係だけでなく、そこに、女の母の役も引き受けこなしていくようにしていったのです。男の私ですが、両性具備の人間になるよう心掛けました。。それは、自他ともに認めるような、世間様も手をだせないような親密な親子関係にもなりました。ホモでないかと自分で心配したくらいに、(男性の自分ながら、男の息子である私の子供を愛し、子供のことを考えましたから。。。もし女の子供だったなら完全にラブラブ状態を隠さないと思いますし、、世間の母親と息子の母子家庭なら相互に依存しあう独特の愛情生活に近かったと思います。。。)。こうして、堂々と子育て男だったと言えるのです。仕事よりも、愛情が上、、、自分の世間的見栄も外聞もありませんでした。子供のために生きている、子供のために、長生きしようと決めて、誓ったのです。80歳までは、絶対死なない、絶対、お前を守り、僻まぬように、不良にならぬように、いい大人にまで育てると。。。。2度と、息子をこの世に1人きりにして置き去りにして、仕事にも出て行かないし、早死にもしないと。。。。そうして、名古屋市に通勤するのを55歳でやめたのでした。。。息子が中学1年生になった時でした。喘息にもなったので、自分がいつ死ぬか分からないし、大人になるまでできるだけ傍にいて一緒に生活していこうと決断して、過酷な勤務の名古屋のタクシー会社を退社したのでした。収入は減っても、、、何よりもしっかりした子供に育てればやがて稼いでくれるし、、親子、共にいいとちゃっかりと思いました。、、、、生きるということは、そもそも「苦」である。この「苦」とは「思い通りにならない」の意味だといいます。生きることは思い通りにならない。それは、誰もが直面しなければならない苦悩です。全てを思い通りにできる人などいない。自分の思い通りに現実をコントロールすることなどできない。そこで、、、「思い」の方を調(ととの)える。。。。 続きを読む
2012年05月09日
白昼の小悪魔達
「YAHOOパ-トナー」に登録して、年齢証明の書類を送ったのです。ようやく、特別会員になれば、費用はかかりますが、真面目な結婚や交際を考えている異性の友人もできる環境を設営したことになります。お見合いのパーテイーにでも出れば良い人も見つかるのかもしれません。。。。まずは、メールの交換から始めてもいいのですが、私の横顔、プロフィール欄に載せてみたけれど、1人もアクセスしてきません。61歳という年齢と、、写真を載せていないので、当たり前だと思います。あたり前田のクラッカーの宣伝をご存知でしょうか?。藤田まことが「てなもんや三度笠」という大昔のTV番組で言っていた文句なのですが、、ご存知のお方は50~60代の人ぐらいでしょうか。。。「当たり前だ」と言うのに、クラッカーをくっ付けただけなんでしたが、クラッカーの宣伝でした。ちなみに、クラッカーとは、お菓子ですよね。あっさり味の洋風のせんべいですかね。。少年の私の好みでしたので、いつまででも、覚えています。あ、それはそれで、小悪魔が跳梁している日本の白昼を思い知らされました。デリバリーのヘルス、、、おーすさまじい商魂、、、、町角のソープランド、それ以上にPCでの出会いセフレ、、、無料の出会いを歌いつつ、巧みに有料のセックス産業へのご招待、へと繋がっていきます。子孫を残すべく励むのはまだしも、まだ経験浅い若者を醜悪なセックス患者にしようとする誘いには十分な注意が必要です。。。。この間、タイでH
をしたので、味を思い出してしまい、出会いに応募してみてみたのですが、すさまじいセックスメールにさらされました。滅茶苦茶な誘いがメールで届きます。言いたい放題、誘いたい砲台、僕の心の弱い隙間を狙ってきます。タイにいてもそれは見れるのでしょうが、日本では、すぐ、傍に彼女らが生活しているのです。日本人の女が、日本語でしゃべるのですから、意志疎通も不安はありません。誘惑はすぐ手に入ります。堕落しようと思えば、1人身ですので、誰も文句をつけれないでしょう。すぐHdekimasu.
お金をさしあげますから、どうかセックスしてくださいまで出ています。金持ち女らしきが、そう、おっしゃるのです。、、、やれやれ、動物性女性とでもいうのでしょうか。それに引き換え、植物性男性は私の息子もです。早く結婚するように、教えています。お金を貯金するんだ、車の運転は美味くなって、女を乗せて行ってやらんトナーと教えます。しかし、ソープとかのことはまだ言いません。未成年だという制限を課しているので、大人の経験、お遊びコーナーのことは黙っておいて、
いつか、会社の人に誘われて経験していくことを待ちたいと思っているのです。。息子の前では私は沈黙の聖者ででもあるかのように、南妙法蓮華経!!を唱えるのであります。。セックスしているとはおくびにも出しません。。。。 続きを読む
をしたので、味を思い出してしまい、出会いに応募してみてみたのですが、すさまじいセックスメールにさらされました。滅茶苦茶な誘いがメールで届きます。言いたい放題、誘いたい砲台、僕の心の弱い隙間を狙ってきます。タイにいてもそれは見れるのでしょうが、日本では、すぐ、傍に彼女らが生活しているのです。日本人の女が、日本語でしゃべるのですから、意志疎通も不安はありません。誘惑はすぐ手に入ります。堕落しようと思えば、1人身ですので、誰も文句をつけれないでしょう。すぐHdekimasu.
お金をさしあげますから、どうかセックスしてくださいまで出ています。金持ち女らしきが、そう、おっしゃるのです。、、、やれやれ、動物性女性とでもいうのでしょうか。それに引き換え、植物性男性は私の息子もです。早く結婚するように、教えています。お金を貯金するんだ、車の運転は美味くなって、女を乗せて行ってやらんトナーと教えます。しかし、ソープとかのことはまだ言いません。未成年だという制限を課しているので、大人の経験、お遊びコーナーのことは黙っておいて、
いつか、会社の人に誘われて経験していくことを待ちたいと思っているのです。。息子の前では私は沈黙の聖者ででもあるかのように、南妙法蓮華経!!を唱えるのであります。。セックスしているとはおくびにも出しません。。。。 続きを読む
2012年05月08日
母が空に昇る日
母が死んだら、日本を離れてもいいと思う。タイで癒してもらおうか。もう金輪際働くことは止めて、自分の死まで生きてみようかとも思う。ここにいい本がある。「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」(文芸春秋)。キリスト教::22億8062万人。世界の33%。イスラム教::15億5319万人。22.5%。ヒンドゥー教::9億4287万人。13.6%。仏教::4億6263万人。6.7%。中国民間宗教(道教、儒教など)::4億5440万人。6.6%。新宗教::6368万人。0.9%。ユダヤ教::1482万人。0.2%。その他::16.5%。世界の信者人口という。。。地元の葬式業者に頼む契約をしていると弟は言います。奴は無宗教で、創価学会にはどうしてもはいりません。「創価学会にはどれだけ言われても入らん」と言い続けています。放っておいてますが、そもそも創価学会員の葬式にはプロの坊さんがおりません。友人葬という形をとるのです。先輩の知り合いの人が導師になって坊さんの代わりを務め、式を取り仕切ります。従って、民間業者の葬式より情がこもり、かつお安くもできるようです。戒名というものなど、必要ではありません。坊さんの商売を助けてみても、実際、浮かばれるものかと思いますし、、死体消滅のための儀式です。死んだ物は放置できないのですから、この世で生きて遺された人達に後ろ指を刺されぬようにするばかりでしょう。弟は金ですませる考えです。。。。本より、、、今、宗教についての関心が高まっています。書店に行くと、宗教についての書籍や、雑誌の特集をよく見かけます。一体何故でしょう?一つには、団塊の世代が、いよいよ身近に「死」の準備をする時期になったと感じ始めたからでしょう。自分や配偶者の親を見送り、友人や先輩の葬式などが増えるうち、「そろそろ自分たちの番かなあ」と思うようになってきた。まだ少しは時間があるだろうと考えつつも、自分の最後の迎え方や、葬式や墓をどうするか気になり出したのでしょう。そうして死の意味を真剣に考える時、宗教に関心を持つのは自然のことでしょう。。。と。時間は十分にあるので、じっくりと読んでいきます。。。。
2012年05月07日
垂井における源氏と平氏
l京都の大江山に住む酒呑(しゅてん)童子という鬼を、渡辺綱、坂田金時(鉞かついだ「金太郎」)らの四天王と呼ばれる家来を引き連れて討ったという伝説を持つ源頼光(みなもとのよりみつ)。藤原道長に仕えて美濃の国などの国司を歴任し、美濃源氏の祖先とされています。この国司には受領(ずりょう)と遙任(ようにん)の2タイプがあり、受領は直接任地へ赴く者、遙任は代官を派遣して、都から離れない者です。頼光は受領として美濃に赴きます。「受領は倒れる所に土をつかめ」という言葉があるようにがめつく、庶民から税などを搾り取ったといいます。「今昔物語」にも、、受領となった国司が都へ戻る途中で谷底に落ちますが、落ちた所に生えていたキノコをつかんで這い上がるという話が出ています。任地に赴いたら収奪できるものは全て蓄財するといった受領の姿を表す逸話です。国司頼光は藤原道長の屋敷が火事になった時、豪華な家財道具一式を贈ったとされますが、美濃の国司で蓄えた財産から賄われたものかもしれません。今年はNHKの「平清盛」が放映中です。昨日「美濃、青墓」と画面で紹介していた地がありましたが、そこはわが住居からバイクでも15分ぐらいの所、現在の大垣市青墓で、すぐ傍には、美濃国分寺跡もあり、、円興寺(最澄が創建した天台宗の寺)周辺の昔の青墓宿には、平安末期には遊女、クグツと呼ばれる人ビトが住んでいました。そこ出身の遊女から取材したかの有名な「梁塵秘抄」の後白河天皇の歌、が、、出ておりました。「遊びをせんとて、、生まれけり、、」、、、。遊女の里が1000年近い昔にあったということですが、今は一面の田が広がっています。
2012年05月06日
GWが終わりました
セントレア空港に本日帰国してくる人の数は約1万人とTVが報じてます。私の息子も今日8日ぶりに岐阜市に帰りました。長い休みでしたが、明日からは仕事になりますか。。。寂しい感じになります。掃除をして洗濯をして、気分転換しております。やれやれという思いと、、やっぱり寂しいなという思いです。休み中、息子は免許も取っているのでドライブにも一人ででかけたようです。友人宅へ行って、夜中まで帰らなかったり、家にいた時と変わり映えのしない様子で日々を過ごしていたようです。社会人になってまだやっと1月が過ぎたばかりですので、こんなもんかと、、、。変わったことといえば、母が口から食べ物を戻し、入院したことですが、博愛病院の3Fの個室に入りました。点滴でしか、栄養物を取り入れられないままです。。。。入院以来2月が経ったのですが、満85歳に今月中になるところです。認知症なので、相変わらず私を分かりません。空へ昇る日は近いのでしょうか、長男の私は明日からハンドルを持ってバスの送迎運転手をやり、母は病室で闘病生活になります。すぐ、顔を見にいけるのですが、度々行っても仕方が無いので、あっさり帰ります。何時退院できるのでしょうか?、、、、、
2012年05月04日
「遺された者こそ食らえ」とトォン師は言った
これは今年4月に晶文社から新刊になった本の題名である。タイ山岳民族カレンの村、チェンマイ県オムコイ郡ソボムヘッド村に2007年10月以来住むようになった吉田清氏の作品で、もう1年以上お気に入りに登録し読み続けてきたブログが本になったのだった。トォン師はタイの坊さんである。吉田氏と年も近いのに、出家以来30年ほどミャンマー、ラオス、カンボジア、の国境沿いの山岳地帯を移動し、野宿したり、食べる物も無いところに2日も3日も過ごし、修行している高位放浪修行僧という。その人が幼い頃から知っている彼の嫁さんの「ラー」さんの夫になった筆者に語った言葉である。。。。それを書いておこうと思います。。。。「お尋ねの人の生き死にについて、ちと話をさせてもらおうか。あんたにもきっと覚えがあると思うが、人間というものはどうにも厄介な生き物でなあ。たとえ、最愛の人を奪われて魂が千切れそうになっているときにすら、腹が減るようにできておる。情け無いことには、噴出す涙と一緒に屁も出るし糞も出る。これは、わしみたいに長年タイの山中でいくら修行してもどうにもならん。それはな、乱暴に言ってしまえば天上の仏とその膝元に昇った最愛の人の霊がな、「生きよ、生きよ」と励ましてくれている証拠なんじゃあ。だからな、何がなんでも飯だけは食わねばならん。。。。それはな、逝った者が遺された者を生かそうとしているんじゃよ。飯さえ食らっていれば、力が湧いてくるんじゃよ。そうでないとな、空に昇った最愛の人の霊が辛いんじゃよ。哀しむんじゃよ。心を地上に残してな、いつまでも思い惑うんじゃよ。先に逝った者にな、遺された者はな、絶対にそんな思いだけはさせてはならんのじゃよ。。。。。」という。作者は、1952年生まれ、私と1歳しかちがわない。
その人の妻は33歳の時事故にあい、半身不随になり彼の介護をうけて20年後、ガンになり53歳で死去されたという。夫唱婦随という人達であったという。そういう経験後、タイへ落ち着いたそうであるが、39歳のラーさんと55歳で知り合い、恋愛結婚、、、カレン族の村に移り住み、牛を飼い、クイッテアオ屋を営み、ブログを書き続けて見えたのでした。。。。本日今回でブログを含めて2回目の読了。。新刊本は垂井町の図書館・垂井ピアに購入され、私が最初の購読者になりました。。。。そうしても、、人は生きていけるのだナーと思いました。とにもかくにも、いい出会いがしたいです。。。。。
その人の妻は33歳の時事故にあい、半身不随になり彼の介護をうけて20年後、ガンになり53歳で死去されたという。夫唱婦随という人達であったという。そういう経験後、タイへ落ち着いたそうであるが、39歳のラーさんと55歳で知り合い、恋愛結婚、、、カレン族の村に移り住み、牛を飼い、クイッテアオ屋を営み、ブログを書き続けて見えたのでした。。。。本日今回でブログを含めて2回目の読了。。新刊本は垂井町の図書館・垂井ピアに購入され、私が最初の購読者になりました。。。。そうしても、、人は生きていけるのだナーと思いました。とにもかくにも、いい出会いがしたいです。。。。。
2012年05月03日
太陽という題名の映画を見る
「ギャオ(GYAO)」というパソコンで映画、ドラマ、韓流ドラマなど無料で見れるサイトがあります。今日はなんとか雨もあがったので垂井祭りがあるという確認の電話をし、ギヤオを見ていた。昨日は1日中雨が降り、前夜祭の2日の祭りは中止となり、今日は3日の本祭りである。シルバー人材からの派遣の交通整理に午後3時から仕事をするので、その間の時間つぶしで、「太陽」という題名の映画を見た。1時間50分の上映時間、2005年製作の、ロシア、イタリア、フランス、スイスの合作品であった。主人公は日本の昭和天皇である。イッセイ・オガタさんが演じていた。その皇后には桃井・かおりさんである。いよいよ日本の敗戦が差し迫った頃、御前会議に臨む現人神の天皇のシーンから始まって、、、戦争遂行させた各界の要人達と皇居の地下の防空壕にある部屋で、日本の行く末を論じたのだった。。。そして、敗戦。。昭和21年、人間天皇宣言をする天皇・裕仁。昭和26年生まれの私にとって、僅か5年前の出来事。その間の天皇個人の、僅か1年間ほどの生活が描かれていた。「アッそー」と受け答えされる天皇の癖も美味く表現されてました。面白いです。日本人が作ったら、遠慮や、配慮ありで、見るのも不敬罪にもあたりそうでなにやら怖いのでしょうが、外人サンが製作しているので安心して見られました。久々に面白い映画でした。
2012年05月01日
博愛会病院の送迎運転手になる
垂井町の総合病院である博愛会病院の患者さんの送り、迎えのバスの運転手に採用されました。朝8時から13時ぐらいの5時間のパート職員としてです。週5日の勤務です。70歳が定年というので、この先まだ十分に長く勤められることのようです。できるだけ長く勤めたいと思っています。。。その初日でありましたが、午後2時にはPCにむかって報告しています。大垣市まで仕事で通わなくてすむし、バイクで7分ぐらいの距離にあります。10人乗りのマイクロバスですし、、冬場のみ心配していればいいような、見知った場所を通っていくので出来ると思いますし。。。。3万人ほどが住んでいる町なので、2台で北と南のコースに別れて運行し、もう1台が人工透析などに通う人などの専用車になっているようです。明日も仕事の見習いをして、GW。3日のシルバーの仕事と5日は朝7時からの人工透析の患者さんの自宅までお迎えにいくことになったのが、入ったけれど、まあ遊んでいたのでおおいに歓迎という気持ちです。もう、簡単には止めません。。。本日は中日対阪神戦が名古屋ドームで行われます。後4時間の時間つぶしです。頑張るぞー仕事だーとも思いますが。。。車の運転の仕事はしたくなかったのですが、まああいいでしょう。これしか能の無い男なのでしょう。故郷の村々を回って行きます。公民館、集会場、00商店の角を曲がって、、よく知る所ばかりを走ります。
2012年04月30日
息子と一緒に買い物へ
息子から28日の午後10時ごろ電話がありました。迎えに来てくれというので、JR垂井駅の南口まで行きました。世間はGWの初日ですが、会社で仕事していたと言います。顔を2週間ぶりに見るのですが、疲れからかやつれて見えました。5月6日まで休みですが、休み明けには初出張と言います、同じ岐阜県の多治見市のお寺の仕事で1週間ほど現地へ泊り込みでいくのです。持ってきたビニール袋には竹ひごでできた沢山の釘とぶ厚い板、それに桧皮が4~5枚入っていました。これを休み中に打つ練習をしてこいということでした。口に竹ひごの釘を含んで、ぺっぺっと吐き出しては連続して打っていく練習です。砥石が家にあるかとも聞きますので、これはいよいよ職人に嵌っていくのかと思い感心してしまいました。そして、昨日、大垣市・赤坂町にあるコメリへ買い物に出かけたのでした。大と小の鑿(のみの難しい漢字です)2本,砥石、工具入れボックス、を買いました。。。この店へは去年の家庭菜園作りで来ていましたが、今年は4月一杯で中止の連絡を垂井町の産業課には電話したのです、面倒になってしまったのでした、他にやることができたので、虫食いばかり作ってほとんど口にはいることが少なかった畑に興味を失ったこと、、飽きたのではありませんが、今は面倒だと結論を出し、一歩後退でした。今度やる時は農薬をどのように使うべきか、あるいは無農薬でのやり方が分かったら、本格的にやってもいいと考えています。農業は私の趣味化しつつあります。このGW中も農業関連の本を3冊借りてきていますし、佐藤愛子(老後の暮らしを書いています)・浅田次郎(直木賞受賞作の鉄道員「ポッポ屋」から始まり一連の歴史物作品)を読みつつこれらを読了してしまおうと思います。牛の飼育は難しい事が分かりました、先行投資にかなり金がかかります。幼牛を買ってきて大人の牛まで育てて売る、その間、毎日世話して肉をどれだけ付けられるかが商売の上がりを決めます。世話するのはいいのですが、経費がどれだけかかるかが問題、売れた値段との差額が利益になりますが、マイナスになることもありえます、相場があり、また病気があり、伝染病があり、予防注射、獣医への支払い、牧場代、建物代、餌代、、、、全てが前払い。。。止めとこうとなりました。。。そんなことを夢想するのも、タイ帰りの影響もあるようです。大規模には出来ぬ相談で、、こじんまりと飼育を楽しもうとメダカを10匹買ってきました。(飼うのに飽きたら、団地のすぐ裏を流れる2級河川の泥川に逃がしてやろうと思います)1匹28円。浮き草1個98円。空気循環器セットを入れても全部で1500円ほど。。昔使っていた水槽はあるので、垂井祭りで金魚を買えばいいと思いました。生き物を飼うのは実に久々になりました。中学生時代熱中した伝書鳩飼い、以来、犬、ハムスター、十姉妹、インコ、についでの再登場となりました。
2012年04月28日
GWが始まり、、、日本の領土が31万平方KMも広がった。
息子が今日帰ってきます。GWの休みは世間並みにあるのでしょうか。世間では今日から、1日、2日を休めば連続9日間の休みが取れるので、海外に出る人も去年よりも増えているそうです。快晴の空が広がっていますが、後半には崩れてくるので、前半に遠出しておくのがいいですとTVが言っています。5時45分から出演している朝ズバの「みのもんた」さんが、、公務員と民間との格差の問題を紙芝居で教えてくれています。元国家公務員で社保庁OBの75歳がもらっている年金は月21万5千円にもなるそうです。。。。この額には驚きます、現在は民間のサラリーマンは基礎年金という部分(これは日本国民共通で公務員も同じ物をもらいます)、と厚生年金部分の2階建てでもらっています。一方の公務員は厚生年金の代わりに共済年金というのをもらいます。ここに、更に公務員は3階建てに当たる「地域手当て」が支給されるのです。東京と田舎ではその額が当然違ってくるのですが、平均2万円程度が支給となるのです。この3つの部分で支給され、合計支給額が400万円以上の格差になるといいます。勿論、民間企業の年金の計算では50人以上の企業の賃金を計算の基礎にしているので、息子の会社のような50人以下の会社の従業員とは更に格差が大きくなるのは当然です。民間サラリーマンというのは、政府(人事院が担当しています)の対象とするのは大企業の従業員なのです。当然、圧倒的な数の多い民間の零細企業の従業員は計算外でパスされてきました。そもそも人事院はレベルの高い企業を計算して、自らの公務員の立場が有利になるよう操作してきたといえます。今までは、「民間のレベルと比較して、、、公務員の給与がこれこれ、しかじか違います、(低いです、だから賃金を上げて良くしないといけません)よって、000円の賃金アップをいたします。」と言い訳、理由説明して延々と公務員の賃金上昇を行ってきました。そして、好都合な自らを肥え太らせる計算もいつまでも続けられなくなったのが、最近の経済格差問題ということです。公務員は実に長い間、国民の目をそらさせ、国民から搾り取った税金のお手盛り山分けを続けてきたのです。選良という名に隠れて、、、いい学校を出て試験を通った頭のいい人間がひき受けて、、税金の管理者なので、密かに自分達の利益確保を最優先して、適宜都合のいい資料をだしては国民を宥め誤魔化せたのでした。。。。汚いことを当たり前にやってこれたのでした。(これが、貴方達の公務ですか・・?)タイでの一部の上層階級の人ビトや汚職をする公務員のやり方にも通じるものでしょうか。。。。むかつきます。朝から、日本はこんな放送をしているのです。それを見なければいいのですが、見ないではいられません。そうして、言わないではいられなくなります。。。日本人の中にもしっかりと広がる階層の2極化を私は感じています。仕方無いので、、「徒然草」の吉田兼好和尚の様に一人農業でもして、憂さ晴らしでブログを書いていくか、、、どこか、離島に住んで、隠遁生活者として、細々と生きていく老後にするかとも思ってしまいます。それでも、楽しみは多く、小さな幸せに包まれ、子供達のことを励みにして世は送れるでしょう。。。趣味に生き、趣味で死ぬ。。適宜快楽をスパイスしたら、それなりに満足のいく人生が送れるのでしょう。。。。やんわりと何かをごまかし続け、自ら立つことを引き伸ばし続け、正義感が泣かない程度に気を晴らし、ほんのチョこっと、遊びに行けば、、、僕のGWになるのでしょうか。。。酷い言い方をしています。1日、本とTVとラジオ、、、野球中継が命を燃やさせ、それ中心に時間をつぶし、眠くなれば寝て、風呂に入りたいと思えば風呂に入る生活を自分一人でやっていますので、随分勝手な言い分が多くなります。。。5月1日からパート仕事を始めます。3日は15時から21時まで、「垂井祭り」の交通止め係りをやります。シルバー人材からの仕事がまたきました。。。去年と同じ西町の前川橋の袂で交通整理をするのです。黄色の上着に緑の帽子の爺さんがいるので、車はそれ以上通れません。歩行者天国で、商工会や露天商の夜店も出ますが、タイの市場より寂しい人出になるのでしょうか。。。。今日は中日とDeNAの放送が14時からです。もう少ししたら子供のために買い物に養老BIGに行こうと思っています。
2012年04月27日
帰国後
まだ日本は寒いです。昨日は一日中雨が降ったので、せっかくの20度越えもあっという間に16度前後になってしまいました。タイとはほぼ20度ぐらいの気温差がありそうです。帰国当日は3月22日でしたが、冬でした。電車の中の皆さんがコートやオーバーを着てみえたのには驚きました。その日の朝は、、5時ぐらいに160Bの「リー4」という名のゲストハウスを出て、MRT沿いにルンピニ、トンロー、ぺチャブリ、そして、マッカサン駅へと歩いていきました。リュックサックを背負っただけの軽装で、タイ滞在中ずーと通してきた半ズボン、半袖シャツ、と黒靴下に運ドー靴といういでたちでした。長ズボンはキャリーバッグの奥にしまいこみ、2月23日の出発の日に着た薄手のジャンパーもタイでは1回、、チェンマイへの夜行列車で着た以外には使うことはありませんでした。前日空港に預けてきたので、まさしく、運動のために1時間半ぐらい歩いたのでした。6時半オープンのマッカサン駅では35Bの始発に乗り、空港へ。。。荷物預かりは100B、ついでに日本へも国際電話を初めてしたのでしたが、100B。朝食は飛行機内で食べれるので何も買いません、、、、そうして、1ヶ月間で使った費用の計算をしてみたら、ほぼ85000円でありました。自宅から自宅に到着までの総費用です。これは大体私の思惑通りの結果になったと思いました。最後の9000円の罰金さえなければ、もっと安くなったのでしたが。。1日当たり、2400円以下で暮らせました、しかも常に移動していたことを考慮すれば、次回は1箇所に長く滞在し、タイ人並みのアパートに住んだりしたら、随分費用は変わってくるでしょう。そう滞在中に窮屈に感じず暮らしてこれた経験は、今後の私には貴重なものになることでしょう。いざとなったら、タイへ行って老後を送ることが出来るという結論がでたのでしたから。。。日本での今後が大切になります。出来るだけ、、、、体が健康で働ける間は、日本にいようと思いました。タイ移住はそれからでいいと思います。未成年の息子もいるのですし、、まだまだ手がかかるでしょう。。本気で日本で、、生活を送ろうと思えるようになりました。よれよれになったら、行けばいい。。。「姨捨山ならぬお爺捨てタイ」で行こうと思うのです。。。今後、タイへ行くのは、働けなくなってからだという事です。。今までの気分的にもタイに片足を突っ込んで、焦って、どっちつかずでいたのは止めようと決断しました。。。こうして、、日本を捨てて、1日も早くタイに移住したい病は収まりました。新しい気持ちで、また日本人生活をやり始めようという事です。タイが好きでも当分の間は、、行かないということになりました。。。ここのところ、タイ旅行やTVのせいで、農業に関心を持って、自分で牛の飼育・養蜂業を考えました。ここ垂井町では牛を飼っている人、事業者が2件あり、蜂では「ミツバチ村」があるのです。役場の産業課に相談の電話をしたり、シルバー人材に今年も登録してそんな関連の働き口でもないかと期待している所です。。。。息子は岐阜市の会社の寮生活になり、私一人の生活で毎日が暇になりました。健康な間は幾つになっても働ける農業は魅力的です。垂井町で山の裾野で農業の自営業化。沖縄移住で牛飼い、離島生活。。。。それなら、父の生まれた島、情け島(広島県、呉市沖にあります)にいっそ移住してみるか、、9人しか以前は住んでないということだったが、、、と、いろいろ考えがでてきます。いやいや、元妻がいる鳥取県移住もありだと、、妻との再婚もありだと粘る私なのです。。さてどうしたものでしょう。本人にも分かりません。。。。ただ、いずれにしろチャレンジする事 続きを読む
2012年04月26日
空港を目指して
朝の6時前、まだ暗い街中へくりだした。坊さんが托鉢している。7・11へまず寄って14Bのインスタントコーヒーを買い、熱いのを路上を眺めながらゆっくりと飲む。上半身裸の親父がポリ容器に液体の入ったのを奥の家から持ってきて、家の前の路上で屋台の準備をしていたりする、油の鍋に何やら入れ始める人もいる、、早朝から仕事する人は多くはないけど、勤勉な人が確かにいる。タイ人がなまかだ(=怠惰)とは到底思えない。リコンファームをしておかねばならんと考え1日前にバンコクへ帰ることにしたのだった。国鉄でパヤタイ駅まで行き、そこで空港リンク線に乗り換え、一路スワンナプーム空港へ行く。、翌朝8時15分発、セントレア空港へは15時40分到着の飛行機。。TG646便である。僕のパスポートには出国カードが付いてないので、(何処かで、誰かが取ってしまったんだと漠然と思っていました)タイ航空の客室乗務員の服装をした女性にカード用紙をもらう。これでいいと思った。。その時には僕は、依然ラオスに入国したまま、ラオスから出国したスタンプは押されていないのを完全に忘れてしまっており、第一、そんなことどうでもいい、それがどうした?という気分だった、いや、もっと悪い、パスポートの役割さえ考えなくなっていた。ようするに、見せろと求められたら見せるだけで、それがどうこうするとは思いもよらなくなっていた。、重要な日本人だという身分証明書、なのに、、、確か、誰かが「NO」といったのを今になって思い出すのだが、翌朝、私はオーバーステーと宣告され、、3000Bの罰金を支払ったのだった。。。。、「ラオス、、、」とかいう係官によって、僕は自分の不備に思い知らされたのだった。パスポートチェックで、、あれー、ラオスを出ていないことになってると、ようやく気がついたのでした。6日分がオーバーになるような計算になるようでした、事務所に連れて行かれ、搭乗券を没収され、なにやら大声で怒鳴られてしまいました。密入国になるのでしょうか?3000B払わないと搭乗券を返さないというふうでしたので、初めは嘘ーだと思いましたが、、事態が分かり始めました。大きなミスになってしまいました。。。。でも、どうにか飛行機に乗ることができました。よく見るとパスポートには私の自筆のサインが書き込まれています。。(私のミスだと言う証明なのでしょう。)。。。一ヶ月間のタイ旅行はこれで終わるのですが、寒い日本でした。半ズボン、半袖のシャツをきたまま、気温9度の名古屋に着いたのでした。キャリーバックは前日荷物預かりに置き、当日着替えればいいと思っていたのでしたから、、、それが、パスポート騒ぎで着替えもせず、てっきり着替えを忘れてしまい、飛行機に乗ったのでしたから。。。機内でも寒いので、薄い毛布を体から離せず震えていました。。。最後の最後、阿呆なザマになりました。名鉄一宮駅のトイレまで僕は半ズボンをはいたままで、、、さすがに日本の皆さんが冬服なのに気がつきましたし、車内で人の目も気にせず、上着をはおりましたが、寒くてたまりませんでした、。。。やれやれ、長ズボンをはき、ジャンパーも着ました、、、、日本はまだ冬でした、、、、車窓の景色に整然とした人家が続くのが嫌でした、、乗客の皆さんが、とても上品で、綺麗過ぎて、洗練されているのを実感していました。。。でも、ひ弱な人ビトとも思ったのも事実でした。、。。。ああ、帰ってきた、、、、1ヶ月間置きっ放しのバイクが動くのか、それとも何処かへもっていかれているかもと、心配でした。。
2012年04月25日
市内散策
タイで口座を作ろうと思っていたので、いろいろ調べたのですが、バンコクではカシコン銀行が最近日本人むけに日本語のみでOKというふうにサービスを強化中とPCに出ていたのを思い出した。。。。歩き出すとそこにかの銀行の支店があった。両替に1万円=3610Bという安さで交換。(今よりずっと悪い)。。。行員は丁寧で、どこか田舎人ではない垢抜けた雰囲気があった。美人のタイ女性はプライドが高そうで、私の密かな憧れをかきたてた。何処の世界でも、私の手の出ない存在が私を情けなく感じさせる。何時ごろから、この僕は、、目の前の美人にも心を動かされなくなっていたろうか。?。何事にも超然とした不感症の爺さんの様に日本では振舞ってきた。。。しかし、ここタイでは、手が出そうになる。。。手がかりさえあれば、接近したい。金持ってるし、、タイ人妻が欲しいし、、と大胆な妄想を抱くことが出来る。。。困った日本人の奢りでしょう、、、床屋を見つけて60Bで散髪してもらいました。黒いマスクをしたまだ若い店主が、「はい、出来上がり、」と言うように、終了の挨拶をしました。180円にも満たない金額です。嬉しそうに、その自分で決めた金額に何も異議はない様子です。。。。申し訳ないねーと言う思いは私です。これで日本の1600円の、それでも日本では安い店に1回分は行かなくて済むと考えました。約10分の1なのです。30Bの麺入りスープに満足します。それで十分な私の昼食です。貧乏生活と言うべきでしょうが、私は日本でも貧乏人生活者です。孤独な爺さんの私なのです。。。。最近のTVが、1万円で耐乏生活、、とか、節約ぶりを報じてくれるのを有難く受け止めています、そうだ、沖縄の島へ移住しようか、牛を飼って、ヤギを飼って、畑で野菜つくって、、誰も住まなくなった古民家を借りて、、、もいいのだ。。。。嫁さんはできないかもしれないが、それはそれでいいかも、仕方が無いと思うだけだ。。。。今日は売春宿へは行くことも無く、路地を歩き回った。犬が仕切りと吼えるのだが、路地裏を散策し、、恐々現地の人の生活ぶりを見て回った。陸軍駐屯地がある、時計台があった、駅は思いのほか小さかった、おそらく開発予定の野原がある、歩くには適当な広さの街だと思った。ここにも住める。。と僕は思う。3月20日、春分の日であった。明日はいよいよ帰るのだと思った。6時40分発11時53分バンコク着の3等列車の券を買った。僅か、48B。5時間余り乗って150円にならないタイの物価である。。。。翌日は朝、5時台に街へ出よう、できるだけゆっくり歩き、街を楽しもうと思った。。。
2012年04月24日
国境でタイ語を書く
早朝から暑く、39度近い。15Bの国境行き緑のバスがあるとホテルで聞き、、教えられた広場にあったのは、トラックそのものを改造したものだった。昔、私の爺さんが箪笥屋をしていた頃に使っていた、、トラックにホロをかけて、2枚の板を荷台の両側にすえつけた席に乗り込んで、四国旅行に行ったことを思い出した。座る所がトクトクよりも高く広々しているのがいい。。途中バスセンターに寄り、地元の電気炊飯器を持った親父と若い女の子を拾うと直線道路を走り、すぐに着いた。国境マーケットがあり、多くの店はこれからオープンするところだった。安い運動靴を買った。既に日本で底に穴があいていたのを、歩くのはむしろ心地よかったのでそのまま履き続けていたのを、、いよいよ、捨てて、新しいものにしたのだった。惜しいと思いつつ、ゴミ箱に投げ入れた。まだ履ける、だれかが見つければ履くかもしれない、、、ズボン、靴下、Tシャツ、半ズボン、皆足りていた。日本からわざわざ持ってきていたので十分だった、洗濯はホテルに泊まると毎日してきた、有り余るほどの洗濯済みの綺麗な下着がある、まめにやっている、キャリーバック内はそれがほとんどの場所を占めている、ごろごろと街中を衣類をつめて引きずってきたのだったか。。。日本でもやってきた日常生活を引きずって、1人きりで、ここまで来た。。。。タイは住める。「旅の指差し会話帳」の2冊と、和英辞典を持ってきていた。英和辞典を忘れたのは、バンコクポストなどの英字新聞を読むとき不自由だった。。。イミグレには寄らず、バス乗り場ではカンボジア、、カジノ、国境、、とタイ語で書いたのを見せた。。。おー、、、、若い男は頷き、あれと指差したのは、カジノホテル、、カンボジアはタイ語で、カメーンと言うらしい。、、そう聞こえた。。。。市内に戻った、、昼には、まだ早かった、やる事が無いので、顔の綺麗なフロントのオバサンがいたので、タイ語で「売春婦、遊ぶ、」と書いて聞いてみた。。すると、、、ホテル発行の市内地図の上に売春もするマッサージ屋さんを教えてくれたのだった。1300Bぐらいですむという説明もしてくれる。思いもよらない無口な女のサービス精神。。。彼女にとってこれは当たり前の行為だったのかもしれないが、そーなれば行かずばなるまいとつい乗ってしまった。。。今日をいれても残り4日だった。。帰国が迫っていた。タイで最後の滞在地になるはずで、見ておこう、と思った。。。。。ホテルから歩いて10分もかからぬ所にそれはあった。中は立派な構えをしていた、、、昼ごはんを食べている女達、少し温度も低いのか石製の床が冷たい。3階まで上がる、廊下は貧弱だ、部屋が両側にあり、夫々がいたす所らしい。女はクーラーを入れる。。。。。事は済み、、シャワーを浴びて、、、僕は萎えて、、、退散。安いので救われている。納得の安堵感はあったのだ。。。人間の生活。。。。日本ではめったに行くことも無かった、、、、久々の慰安。。。。日本ではこれが、目を見張らせるような高値で取引されているのだ。私の普段の生活費からみれば、なんという浪費であろう。高い春の値段がタイでは安い。。。。うれしいことです。独身男の私には有難いことでした。。。。。こうして、アランヤプラテートの2日目が暮れていきました。
2012年04月23日
バンコクからアランヤプラテートへ向う
16時47分スラタニー駅発バンコク行きの夜行はなかなか発車しなかった。1時間以上も前から乗り込んだので更に待つている時間は長くなった。雷が鳴り、豪雨がやってきても動かない、土地のタイ人はよく知っているようで、ホームにおりて時間を潰している。定刻から1時間以上遅れてやっと少し動きだしたと思ったら、構内で止まり、2列車も先に行かせている、おまけにまた元の所へ戻ってきた。。。18時過ぎていたろうか、北に向った。僕の向かいの席は20歳そこそこの女1人・男2人の同年代の3人連れ。ロシア人カップルも退屈してブドウと何かの実を食べだして、もう辺りは真っ暗になっていた。席は満席状態。3等の指定席は217B。車掌が切符のチェックに発車直後にやって来て、はさみを入れていく、顔を覚えているのだろう、その後大きな駅で停車する度、新しい客が乗って来てもまごつかずにパスしていく。その度、そこまで乗ってきた客の中で席を移動する横着者がでてくる、今まで大きな声でしゃべっていた大場所取りの高齢の男(世に古びた連中の一人)が消える。席が空き、今度は正規の乗客がほっとする、、僕は荷物を絶えず監視している、パスポートと少しの現金を見つからないような所に入れこんであるのに、なお気にかけている。何時しか習い性になっている。”頭上の敵機”ならぬ頭上の荷物を気にしている。。夜中になっても完全には眠らず、、ぼーつと時が流れるのを我慢している。458Bだせば2等列車だが、到着時間は同じ、、先頭車両が2等である。。ならば3等で十分。キャンセルしても払い戻し0だったクイーンホテルのロス分もこれで解消されるし、翌日の朝から行動可能になる、、、、ファランポーン駅に7時に到着。。。。もはやどこか他のところへでも見物しに行ってこようとは思わない。13時5分発まで駅構内のイスに腰掛け時間潰しをするばかり。大よそ、5時間の辛抱だ。体を休ませながら、坊さんの予約席を見ていると、、、突然ゴム草履を脱ぎ跪く30代の男が、、坊さんに擦り寄り、食べ物を捧げる。恭しく敬虔な素振りだった。同年代に違いない坊さんが、冷静にさらりと尊敬の行為を受けている。。。上座仏教の国は一瞬美しい時を見せてくれ、僕を突然感動させてくれる。その筋肉の発達した30代の労働している男が清らかに見える。朝2:45起床、3:00読経、4:00座禅、6:30托鉢、8:00食事、9~15:00自由時間15~16:00掃除18:00読経、及び座禅21:00就寝~の繰り返し。。。。上座部のタイの坊さんの一日。。。そういえば、夜中、突然坊さんの一斉の読経の声を聞いたことがあった。。。ア、アッ美しい、男の声でも一斉に張り上げられ、リズムがあるので、思わず清澄さに胸を打たれた。、これは、日本でも同じだ、仏の賛美歌なのだ。。。。ドーナツ屋に寄って来る客を見ていた、日本人女性も多い。。。。すると、、、チェンライで部屋が向いどうしで、33歳の、ラオスで別れた女性がやってきた。他に2人の女性もいたが、、、やーと思わず右肩を掴んでしまった。「、、、、、、」女の驚きと僕の一瞬の喜び。奇遇だ。彼女は25日に帰国予定で、クラビからの帰り。僕はアランヤ、、で、最後を送り22日に帰国だと言う。。。それ以上のことは言えなかった。Hしようよとは毛頭言えず、”当たり前だのクラッカー”になり、、見逃す。。。見送ると書きたいが、、、本心はHしたい、いい機会に恵まれ偶然思いもかけずに再会できたのだから、こいつは神さんの応援を受けているとも思いたい。。。が、年齢の差を思い、僕は気持ちを押さえ込んでいた。。。恥を言うな。。。。黙って見逃せ。。。彼女は浮かれたように「日本に帰ったら、働きたいわ」と言った。「六本木で、、」料理人なのだと言う。僕は引いていく。。。28歳の年の差で、、、18時20分アランヤプラテートに到着。駅前はすでに暗くなりかかり、トクトクに乗り込む、、今日ばかりは泊まる宿を決めていた。。。。本にでていた200Bの「アラン・ガーデン1」に3連泊したのだった。TV付き、4階の部屋だった。狭い通りの向かいの銀行の看板以外、、民家ばかりが周囲に並んでいる。小さな街だが、懐かしい感じがしていた。。
2012年04月22日
YAHOOパートナーに登録しました!
とうとう、本日、結婚を目当てに登録してみました。。。私のブログの読者さんで、いいよ、付き合ってもという人も勿論歓迎します。。。興味のある人は「YAHOOパートナー」を覗いてみてください。。。ご連絡をお待ちしております。。。ちなみに、希望年齢は35歳~49歳にしておりますが、49歳は元妻の年齢でして、まだ彼女に少しは未練も義務感もあってかかげております。35歳以下でもブログを読んでいて、一遍会ってもいいやとお思いの人なら歓迎です。家の周辺などご案内いたします。なにせ、関が原合戦場もすぐ傍ですし、歴女さんなら大歓迎です。結婚は考えないで遊びに来てもらってもいいですよ。。。。。タイへ一緒に移住してもいいという人も大歓迎です。。。。タイ在住中で、そろそろいい人いないかとお思いの人ならなお更によろしいです。。。メールかコメントに書き込んでください。メールのアドレス:::nryrb500@gmail.com
です。よろしく、本人は大決心の下、これを書いております。いいかげんな気持ちではありません。。。。よろしく。敬具。
です。よろしく、本人は大決心の下、これを書いております。いいかげんな気持ちではありません。。。。よろしく。敬具。
2012年04月22日
夜はよく寝て朝早くから行動しよう
勤勉な勤め人は夜はよく寝るものです。エネルギィは翌日の仕事のために蓄えるのです。常に朝の早い私はスラタニーの駅前から出ている6時発の通勤のバスに乗ったのでした。行き先は分からないのに、乗客を見ておおよそを判断します。間違っていても、行き先がとんでもない所であっても、朝が早いと1日の時間に余裕がもてます、それから修整すればいいじゃん、、誤りも生活の一部です、誤まったことが、後日の生きた教訓になるのですし、経験が増えるのですから。何処へ行くのか分かりませんが、すまして通勤するタイ人の顔やら様子を観察していました。今日は泳ごうとの希望を持っていました。海へ行くかと女車掌に聞きました、OKです、今日こそ海で泳げると喜びました、、、乗客は降りていき、僕は最後まで乗っていました、海は見えません、そこはバスセンターでした。トクトクが止まっています、何処行くか?、、海、と思い海の絵を描きました。ついでにヨットを添えます、OK。。。。待つ間、おかゆを食べてきてついでにトイレも借りたのでしたが、猛烈に汚かったのですが、女店主は気にしていない様子です、彼女の汚れた手を通じて感染する病気もあるはずです、(タイ人は左手で自分の排便を水をつけてこすり、流して洗うのですから)洗った手に便が残っていて、料理する手についたまま客の料理に引っ付き、口から細菌が感染する赤痢のような病気があります)。。これについては、タイにいる間中、軽い下痢が続いていましたので、深刻に警戒していました。。楽しい事ばかりが続くものではありえません。タイ滞在中は病気が一番怖かったのです。。むしろ爆弾騒動があっても関係ないよと思えたのですが、感染症だけは防げません、エイズもしかり、で、僕は浮かれ過ぎな事はしませんでした。部屋にTVがあればTVを見て、持ってきた本を読み、ビアがあればそれを飲み、無闇に夜に出かけることは避けました。明るい日中に行動することが原則で、力の衰えた爺さんの安全対策でした。。。バスセンターから100Bの運賃で、トクトクはサムイ島に行くフェリー乗り場に連れて行きました。これが大方の人の行動パターンでしょう。。僕はあー海水浴場へ行きたいのにと思いました、遠くに澄んだ海の水が見えたのでしたが、港では泳げません。船にまで乗ろうとは思えず、、、散策をすますと、、また元来た道を引き返すのに好都合なミニバスをみつけて乗り込みました、、また先ほどのバスセンターに100Bでミニバスは到着したのですが、今度はスラタニー市内まで300Bだ、BECAUSE,,遠いと40ぐらいの運転手が誘ってきました。英語を使うか、!この野郎!何故なら遠いときたぞ、先ほど市内バスで13Bで来たわい!!と思わずの反射行為で「乗るかー!」と言い放っていました。。ふっかけやがって、、、、。こういう手合いもいるのです。。1日分の最低賃金をものの30分ほどで稼ごうと計算したのでしょう。強欲な悪い奴、タイ人でも最もすれた運転手の類です。僕は気持ちが分かるのですが、許しません。。。市内バスの若い女車掌と強そうな体の運転手のバスは規定料金の13Bでクイーンホテル前まで連れて行ってくれました。3月17日、まだ午前中でしたが連泊を切り上げ、、残り5日だと考えました。アユタヤ、カンチャナブリには行っていましたので、最後にアランヤプラテートへ行くのだと思ったのでした。カンボジアへの国境の街、日本人がVIZAの書き換えにとりあえずよく行く街、タイ人がギャンブルでよく行く街。カンボジアの内戦時代に追い詰められたポルポトの残存勢力が、付近にたむろしていた街。いつの記憶か忘れているのに、突然思い出すのは、ベトナム戦争時代と、その後のポルポトのクメールルージュの残虐・陰惨な内戦時代のことなのでした。。ホテル代の240Bを捨てても夜行列車で行けばファランポーン駅には翌朝7時に着く。217Bのバンコク行きが、16時47分発でありました。。。。
2012年04月21日
もう1回タイの南部へ
タイ国鉄(SRTというらしい)は毎年赤字が累積しているという。全土に張り巡らした総延長約4000KMで約4千万の旅客を年間運んでいるというが、なにせ施設も車両も老朽化しており、おまけに全線の内8分の1くらいしか複線化されていないので、常に引き込み線に入って、反対方向から来る列車を交さねばならない、そのため時間が余分にかかり、実に予定表の時間通りに着くことはない様だ。これは3等の鈍行と比べて、10倍近い料金になることもあるエアコン車の2等でも同じことで、3等と比べて目茶な料金を女性サービス員で誤魔化している。エアコンは効きすぎ,しばらくはガンガンの冷却地帯に入り込んではすぐにペースダウン、鈍行と同じ暑さになる、そのため機械修理要員が乗っている。女性サービス員らは最初はいいが、やがて疲れきりふてくされているし、有難迷惑、たいした上等でも無い座席は古くなり所々破れている。こんなにぼるのか、だったら最初から鈍行を値上げしておけよ、とさえ思ってしまう、、何故こんなに高いと聞くと、エアコンがあるからという。だったら、故障はないようにしてくれ、、、しかし、故障して、3等並みに落ちてしまう。。よくある事だが、そもそも安い、が、今日は578Bの2等・エアコン車でスラタニーへ行った。。ファヒンまでで、できるだけ時間をかけたくないし、少しは早く着くのかと勘違いしたのだったが、3等と連結してあるので同じ運命である。設備の差に料金の設定がされているのだから、早さとは、(、所要時間)関係が無いことになる。ただ、今日は8時5分発、16時45分着の列車しかなかったのだから仕方が無かった。。。こうなりゃ、爆弾騒ぎの続くヤラー、パタ二、ナラティワートまで行って最後の時間潰しをしようかとも考える、プーケット、クラビは勿論番外地である。若者の行く観光地には行かないのだ、基本的に歓楽街も当然無視すべき地帯である。。一般の土臭い庶民の生活レベルで老後生活を送るのだからして、、、金のかからぬ生活を求めていくのだったから。。クラ地峡と呼ばれるタイとミャンマーの最も狭まった地帯で海岸を見る。綺麗な海の色をしていた。。。チュンポンで白人の家族が大勢降りていく。風向明媚な所に住みたがるファランが大勢生活しているのだろう。。。スラタニー駅前から出るバスに乗り込む若いファラン達、ツアーに誘おうと付きまとう現地タイ人を尻目に(、全く僕には声がかからない、狙いが違うとこうも違う、)、、歩いてすぐのクイーンホテルに連泊、1晩240B。外装は綺麗に色塗りされていた。駅前は落ち付ける広さだ、のんびり。。部屋にはホテル裏の崖際から緑の木々が迫っている、これもまあいい。小さいテラスも気持ちよく乾燥していた、、洗濯物を干す、優雅な気分になる、受付の中年女性が美人だった、どうしてすぐさまHを迫らなかったのか反省させるほど、、、魅力。。が、もう僕の前には現れなかったが、ビアを飲んでいると幸せにはなったのだった。。。タイの南部地帯も住んでみたい所になると思った。。イスラムの雰囲気はまだここらには感じられない、最南深部までは後半日はかかるのだ、、、
2012年04月20日
3月15日、バンコク
まだ暗い早朝。窓の開けっぱなしの部屋は大洪水にみまわれた。突然の豪雨がベッドまで吹き込み、床に水溜りができていた。おお慌てで窓を閉めたが、顔も服もびしょ濡れになっていた。ゴーゴーと音をたて、雨が降り続いた。見る間に前の大通りが冠水していった、道路の中央側が高くなり歩道側へ傾斜しているので、ホテル前の歩道は川の様な深さになっていく、一時は膝下5CMというところまで水が来た。。ホテルの女従業員が道のゴミを拾い、掃除をし始めた。センターラインの1本がかろうじて浅い、、大通りが走行出来ないくらいの水量になっていた、、、ところがバイクも車もどんどん水を蹴立てて走っていくのだった、、去年のタイ中部から、バンコクへと迫った大洪水が思いだされる。水中走行可能の煙突をつけたバイクがあった、、、水はタイ人の友達だ、これきしの水は屁でもない、、、合羽を着ている女もいたが、長いすそのあるドレスを着たまま水に晒したままバイク走行する若いOLもいる。見ている僕はタイ人の行動力に励まされる。。。いよいよ僕は今日はバンコクへ戻るつもりでチェックアウトをしたが、バスセンターへ行く街中の途中の道も水がついている。。僕はゴム草履に半ズボン姿でキャリーバッグを抱えて歩いた。朝食におかゆを食べた店は閉ったままで、、バスセンターにも水がきていたろうが、運良くその直前でバンコク行きの大型バスが出てくるのに出くわした。朝1番のバスの運転手が僕を呼び止めてくれ、道の途中で乗り込むことができる。120Bでバンコクのエカマイへ。。日本の大企業の看板と工場が目入ってくる。高速道路が広い。とにかく道路の周辺の土地は広々としている。ラヨーン、シラチャー~日本の郊外のような人家や建物も立っていて、大都会バンコクの圏内に入って行く、、、結局、3度目のファランポーン駅前のステーションホテルの250Bで、ファンの部屋に落ち着くことができた。ここには慣れたし、鉄道が便利だった。さすがにホテルの女門番も顔を覚えたのか、そそくさと3階まで荷物を持っていってくれたのだった。。。僕は忙しい営業マンの様であった。キャリーバッグには商品の見本がたっぷり入り、今日はあの街、明日は別の街へと飛び交いながらホテル住まいを繰り返す。。むしろフーテンの虎さんであっても、、タイのバックパッカーというような遊び気分で旅行してはいなかった。費用対効果を厳然と追及していたのだ。老後に備えて、、、有名な名所旧跡にも、希少な山岳民族にも興味はなかった、盛り場、高級料理店、歓楽街にも興味は薄いのだった、ともかくタイの風土を地理的、経済的に、日常生活のレベルで生活するために少しでも体験しておこう、見ておこうというような思いだった。勿論Hは2の次、タイ人との意義のある交流も2の次、おいしい値の張る料理はどうでもいい、、、まず、タイの国土、自然を知ろう、感じよう、、大地を。。。街をだった。。ざーっと、見ておこう、タイの全体を感じておこう、、、無理にもお金はできる限り使わないで、幾らかかるかも大きな関心事だった。移住したいのだから。。。将来死ぬ場所を探す、、、僕が満足して生き絶えることができる場所を探す。。。黄金色の仏像の下で死のうというのとは全く違う、、、タイ人の信仰に導かれて同化してしまおうとも思えないが、タイ人も引きずっているし、この日本人の心の奥底にも眠っている悟り、、、、人間の人生に終わりを告げてもいいという悟り、、別の言葉で言えば覚悟、ともいえる何者かの手ごたえが欲しいと思う。、、うつらうつらしながら、、考えていたのだが、夜中の3時になっても、ホテルの隣の部屋から子供がしゃべるのが聞こえていた。僕はついにウルセーと大声を出した。子供の声だった、大人の声はくぐもって低く聞こえるのに、子供が容赦なく声を張り上げているのだ、止めない、注意もしない、だから、、叫ぶしかなかった、壁にこぶしをぶっつけ、大声を出す。。。。廊下の反対側の部屋にも聞こえる声が出た。。。そして、しばらくの静穏、、@@、、またしゃべりだすタイの餓鬼、、、タイ人の大人の道徳心・公共への心構えはどうなっている????
2012年04月19日
パタヤの北海岸を歩く、、
早朝、大通りに幾台もの大型観光バスが止まっていく。工場の作業着姿の若い男女が1人、2人と乗り込んでいく。大通りの奥の路地からは人が次々と出てきて、決まった場所に立っては夫々のお迎えのバスを待ち、仕事場に行く。。PTTだったか、タイのケミカル大手企業のバスが目立つ。巨大コンビナートが近郊に連なっている街、ラヨーンである。炎を空へと吐き出し、原油から石油・ビニール製品を生産している。タイには珍しい工業地帯だ。若いタイ人労働者が早朝から働きに行くのだ。はしゃぐ様に、女達が一団で道路をこちら側へ渡って来る。きびきびとし、はつらつとし、、、朝が気持ちよさそうだ。先進国でも見られる大企業の労働者達の朝の通勤風景。7時前。レンタバイクで行こうと思いバスセンター前でモタサイに乗る。ところが、全くぼろいバイクしか置いてない店に連れてかれて、、店の夫婦ではなく隣のミニバスの運転手だというインド人の親父がでてきて、バイクを借りるのなら保証金に2890B置いていけと英語で言うのだった。200Bだろう、何処でもパスポートを見せればOKだったぞと反論するのだが、聞き入れない、何でお前が出てくる?、第一そんな高額の金など持ってないよ、、それでも、しつこく男が言い張った、、パスポートに問題があったのか?、、今なら3月1日にラオスに入国したまま翌日には出国してしまい出国のスタンプが押してないままである(密入国になるのだろうか、、?)のに思い至るのだが、違法入国者とでも思われたのかとも、、、というふうに反省できるのだが、しかし、よくよくバイクを見ればすべてが埃まみれ、、胡散臭い、、その時は、、、そうか、そんなに言うのなら、、、頼まないよ、借りなきゃいいんだろう、儲からないぞと思って外にでてしまったのだったが、それで正解だったろう。その後白いミニバスに乗ると80Bで女遊びのメッカ、、、様々な国の男達が、老いも若きもタイの女達と気軽に遊ぶ歓楽街のあるパタヤへ着くことができた。どこかに39度の温度表示を見た。泳げると期待して道をはずれ海を目指した。。観光バスが止まる広場を抜け、海岸に着いた。初めてのタイの海を見る。。が、、海は真っ黒、どす黒く汚れきって、ピタピタ押し寄せる波の汚さはかつての湘南海岸で見た比ではなかった。浜辺の砂もヘドロまみれで真っ黒く臭く、中年男が懸命にゴミ掃除の作業中だった、、そこはホテルに直結する私有のビーチだった。。沖にも誰一人泳いでいる人がいない。僕は早々に持ってきた水泳パンツを仕舞い込んだ。 続きを読む
2012年04月18日
国境の村からラヨーンへ、、
トラートから90KMのほぼ直線道路を走って行った。、オレンジ色の電灯が所々で点灯している、がそこを過ぎるとまた真っ暗。信号も全くと言っていいほど無い。民家がポツリ、、、、ポツリ、と表れる以外、背の高い木のジャングル。。遠くに海が感じられる。海岸と平行に走っていた。途中1箇所の村に寄って若い男を下ろしただけで、6時頃、カンボジア国境の村に到着。振り返ると坂の頂上に開けた広場になっており、、、、国境のゲートが正面にあり、右手の海には急な狭い坂道の両側に並ぶ物売りの店の間を降りていかねば行くことはできなかった。門は閉まっていたが、朝のタイ国軍は運動を始めた。国境守備隊員の駆けっこがゲート前で始まり、目の前を全速力で疾走したり、、トクトクで走ってきた急な坂道では一塊りの軍人が上半身裸で、1,2、1,2、と掛け声を出しながらランニングをする。。。。民家と商店が広場の両側にあり、路上では市場が開かれ始め、、、電柱の拡声器からは何やら教えを聞かせるような、哲学的な声が流れた、イスラムのアラー・アクバルと叫ぶ拡声器の声の調子とは少し違う、、。やがて、小学生がゲートに近ずいてくると兵士はゲートを少し開けて子供らを通し始めた。カンボジア側へ子供らは通学していく。。。内戦以来この付近に逃げてきた人達の子供なのだろう。。。ごく最近の国境紛争は今は収まっているようだ。。。カンボジア人がゲートを通り入国してきた、タイからもトラックが行く、中学生ぐらいの少年がその門の前で書類を見たりして車を行かせているが、まるでアルバイトのような気安さに見える。脇のイミグレは平屋建て、、、その先のカンボジア側にも広場が見て取れ、リヤカーが沢山集まってきている、現地のカンボジア人がリヤカーに野菜を積んで歩いてくる、、、、もうその頃には僕は興味を失い、2時間ほどもウロウロしていたのに気がつく。リエルに交換した店でまたバーツに交換し直した。。カンボジアに行く元気は湧いてこなかったのだ。。店主は同じ額を返してくれる。それじゃあ儲けが無いので20B出し、隣の店では女の子が店番をしているのでミニバスが出るまで時間つぶしにコーヒーを飲む。。疲れてしまい、更にシンハビア35Bも飲んでしまう、、。引き上げ時だった、、、トラートのバスセンターまで戻る。248Bでモーチット、188Bでエカマイ。。そうだが、、東海岸を見ようとラヨーン行きのバスに乗る。113B。10時になる前には、到着したが、このバスはよく混み、途中大きな街をラヨーンと間違えて席を慌てて立ってしまった僕の席は、すぐさま立っていた中華系の金持ち婦人に取られてしまった。間違ってましたと言えるのなら言ったのだが、、、それでまた乗るよと言うのだが、席は代ることなく、中華婦人は平気な顔ですましたまま、乗っていったのだった。一瞬の感違いで、その後1時間以上も僕は立ちっぱなしになり、一層疲れ、景色にも飽き飽きしたのだが、、中国系タイ婦人の我関せずの態度は見事だと思った。顔を見てやったが、十分事態は明瞭に推察されたのだろうが代ろうという素振りは見られなかった。、、、立ちっ放しは疲れる、できれば座りたい、、席が空いた、自分は座った、席を立った人は間違っていたらしい、、、まだバス内にいるし、、、でも代ってくれたのだろう。私のために。。。。ありがとう、、、そうに違いない。。。今度こそラヨーン市に間違いないと思える所で、バスを降りた。何処であろうが、まず宿を探す、、行きあたりばったりのやり方でここまで来ていた。どうにでもなるのだし、どうにでもしていいのだ、決まったことは無いのだった。。大通りを歩いていくとモタサイの溜まり場があった。。「安い、CHEAPな泊まる所へ連れてって」と寝る真似をして説明する。運賃40Bで、200Bの「三合旅社」に着く。男は「LOTUS!」と教えてくれる。連泊、400B支払う。しっかりとした石造りの階段を登って、4階の部屋は大通りを見下ろすことが出来たし、十分な広さでトイレも綺麗でベッドもツインの広さがあった。。。建物の1階は工務店になっており、傍らにあるホテルの入り口は小さかったが、中は大きいのだった。LOTUSへ行きがてら、すぐ隣に広い市場もあるのを確認。ライチーを木の束ごと買う。これを食べるのが今夜の一番の楽しみになる。先ほど売笑婦を呼んでくれとフロントに申しでてみたが、、、意志が通じないし、やはりというか無視されてしまったようだった。。。少し恥を偲んでみたのだったが、図々しかったのか、いけないことだったのか、もっとやってみたいという大人の男の思いは適わない。。。キャリーバッグをひっくり返し中身を整理し鍵をしっかりかける。今まで盗難事故もなく、(唯一バスの車内荷物置き場で、、バンコクの路線地図の本が盗られているのが分かったアクシデントを除き、)無事来れたのは、常に警戒し、常に鍵をかけてきたことのおかげだったろう。。老人の注意深さもたいしたものである。経験に裏打ちされた優雅な重みとでもいうものを体得しているのだ。。。。。明日はパタヤへ行くのだと思い決めて就寝。。。
2012年04月17日
ファヒンからトラートへ
翌朝、ステーションホテルを6時半にはチェックアウト、駅前の路上でやっている屋台でセタパッ(焼き飯・チャーハン)と水で45Bの朝食。その内の5Bは朝から手伝いをする少年にあげたチップだった。。。ファランポーン駅からファヒンまで44Bだったが、例のアホ首相のH元首相が国際会議とかで出席した所。有名な避暑地で観光地。9時20分発13時50分着の予定。。。タイ国鉄の売り子のもってくるヌードルは実においしく、昼食にはまた焼き飯20B,ビア50B,青いマンゴー30B、お菓子35Bなどを買ったのだったが、向かいに座った1人の少女はとても可愛い顔をし、オッパイも程よく発達しており、ウーーんと惹きつけられてしまう程。。魅力的だった。隣にはしきりとじゃれあうボーイフレンドの様な男役をしている少女もいたので、、レズというのか、、一層興味がつのったのだった。僕は写真を撮らせてもらい、お菓子をプレゼントする。。。2人もファヒンまでだったので道中は楽しかった。新しい駅が工事中だった。。。5時間。そうして着いたのだが、予約したホテルがあるわけでないので、一人キャリーバッグを引きずりながら、市内探検するつもりで宿探し。。。5軒もあたったのだが、値段は600Bだ、700Bだ、というホテルばかり、ユースホステルも高い、道路に、レストランに、喫茶店に、、ミニホテルそのものをファランが経営している、ヒルトンホテルも聳えている。駅前からゴルフ場が広がっているのだ。。。、、、、白人・(ファラン)が満ち溢れていて、ここは裕福なファラン専用の町であるらしいと分かってきたので、、また駅前に戻りモタサイに乗って安いホテルへ連れてってと頼む。。。。40Bで着いた、奥まり密集した店や屋台のある一画、中国人風の人が経営するゲストハウスがある、、、言い値は350B。。僕は300Bにしてよと値切ったのだが、駄目。そうかー、、、もう頼まないよと即決。。。。帰ると決めてしまった。高い町で泊まろうとは全く思っていなかった。ここは物価の高い町なのだ。。僕には関係の無い町でいいと思った。。。ところが、バンコク行きは16時30分しかないのだった、382B、エアコン車、の2等列車のみで帰らねばならない。。それがどうしても嫌だったのだが、いっそ最南部を通りマレーシアへ行くかとも思ったのだ。。。僕の頭の中には、、とーりゃんせ、通りゃんせ、行きは良い良い、帰りは怖い、、、怖いながらも、とーおーりゃんせー、、、という歌詞が浮かんでくる。どうしたものか、、、、試行錯誤、思案滅裂、、結局、、この値段の差は何だと思いながらも2等へ。。。さすがに2人の女性サービス員がつき、ジュースを出してくれ、お菓子も呉れたのだったが、あまりに利きすぎの冷房はまだ時期が早い。。。寒い。寒い。44Bのファンのみの3等列車で十分なのに、、寒さに苦しめられても値段は高いのだった。。これがタイ国鉄の誇る稼ぎ頭なのだろう。オオーー寒い限りで、取って返したバンコクで、ステーションホテルは450Bのエアコン室しか空いてないといわれてしまう、、、またしても、「じゃあいいです」が突出して、そのままの勢いで、エカマイへ。。。夜10時前。東部方面行きのバスセンターにたどり着いた。その場で241Bの深夜便でトラートに行こうと決めたのだった。タイ東部海岸に近い町。。。カンボジア国境へ行く拠点になる町だ。まだ、未踏の地だった。。。もう、変に怖がらないでいられる。、、、タイに慣れてきていたので、深夜のバス内でも恐怖感はない。暗い車内に、若いアフリカ人が乗っていた。周りにはカンボジア人もいるような顔ぶれだが、無闇に恐れていてもいけないし、、、打ち解けた様子で行くのがいいと、無理にも、リラックス。そして睡眠。。これぞ車中泊で宿代が浮く。。。真っ暗な景色しか見えない、、僕は冒険心もあって元気だった。気分は上向き。午前3時までかかって、バスはようやく止まった。。。例によって、売店も屋台も無い何ほどの物のない広場。そこがバスセンターだった。切符売り場は閉まっている。人が6~7人ほどイスに座っている、トイレ前にはインスタントコーヒーを売る屋台兼トイレ代集金係りの女性が寝ながら店番。。バスは行き先によって、行きたい人が集まったら、随時行くとのこと。。僕はカンボジア国境へ行くと表明、「ボーダー」で通じる。イスに寝そべり、ぼんやりと待つ。。。行き先の同じ人が到着するまで待たねばならなかった。。。。市街から離れた所にあるバスセンターであった。真っ暗な外を見ていると、午前4時半頃、トクトクの運転手が僕を呼び「今から、行く。170Bだ」と言った。男が5人やって来ていた、一緒に乗ってみる。行かねばならん、、なんなら越えてもいい、国境を、、、とも思っていた。。。料金を払うと実際とられたのは120Bになっていたが、またまた飛ばして行ったのだった。超猛スピードで真っ暗な道を走っていく。一本道の直線道路だった。一番後ろの席はすぐ道路である、荷物を落とさぬよう抑えながら、不気味に物言わぬ男達に混ざって僕も一言も発せず耐えていた。。。ふー。
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2012年04月16日
美しいお顔の女駅員はむくれました
市内散策の途中、コラート駅にバンコク行きの予約切符を買いに寄ったのですが、バンコクまでと言うと、相手をした女性駅員は2等列車でエアコン車の325Bの券を発券したので、そいつは高いよと当然思ったのです。。バンコクからウドンターニー行きでも245Bだったのですし、1昨日は56Bでウドンター二ーからコラートに来ていたので、当然189B以上はしないと思っていたのでしたからです。。列車は10時18分発、14時50分着、、、その時はすぐ傍のホテルへ帰ったのでしたが、、よくよくファランポーン駅でくれた列車の時刻表を見たら、もう一つ前の8時22分発14時10分着のバンコク行きがあるのでした。このほうが早く着くし、何故自由席オンリーの3等を選ばなかったのか後悔したので、また駅へ行ったのでした。先ほど説明もなしに、いきなり、2等エアコン車券を発行した美人の女駅員が窓口に座っていました。「交換してくれ」と券を見せ申し込んだのですが、女はぷりぷりしだして、困ったのでしょう、、男の駅員に代ってもらい、男の駅員の説明をすぐ後ろで念押しするかのように見ておりました。ふくれっ面をしています、何が悪いといいたげです、ズボンをはいたお尻はむっちりとし、お顔の綺麗な、若いタイ美人でした。。男は女の期待にこたえるべく「駄目だ」といいました。50Bのにしてくれ、3等列車がいいと言いつのっても、駄目だの1点張りなのです。、エアコン車だから275B高いのであって、、、キャンセルは出来ない、というのでした。つい1時間前に発券したばかりだったのに、変更は駄目というのです。客の指定の時間も聞かず、一方的に決めて高い券を売りつけたじゃあないかと僕は怒っていたのですが、時間を指定しなかったのは当方が悪いとしても、交換してくれないと困るじゃあないか。こちらは客だぞと思っていました。。。その論理は通じませんでした。「エアコン車はキャンセルだ、差額を返してくれ」、、、「NO」、、325Bは返さない,パアになります、でも50Bの券はその分から無料でお出ししますというのでした。それじゃあ、まるきしの275Bの損になる、、「ああ。それならいいよ、OK,OK、、このままでいいよ」僕もむくれて折れたのでした。。。。今まで、タイ国鉄では3等車しか乗ってこなかったのですが、この際しかたがないかと諦めたのでした。が、1歩後退、2歩前進が心情の私は、翌朝、8時の列車に乗ったのでした。別の駅員に代ればきっと違う対応になるに違いないと踏んで、、、でしたが、もう一度、「これと50Bのと代えてくれ」言いました。。。そうです、当日のキャンセルで、325B券は162Bになってしまいましたが、返金されました。163Bの損害ですみます。結局50B+56Bでウドンター二ーからバンコクへ帰ることが出来ました。行きは3等の指定席で245Bで、帰りは自由席3等のみで合計106B。それに損した163B。。ほんの少しは損したのかなとも思いましたが、24B余分だけですみました。。時間は当然計算にいれられないタイの国鉄です、、、、またファランポーン駅に着き、今回は250Bで再びステーションホテルのツイン・水シャワー・ファンの部屋に泊まることが出来ました。5階の部屋でしたので、バンコク初日の450Bのエアコン部屋よりも騒音がないようにも思えました。3月11日。東北大地震の1周年の日でした。伊勢丹向かいのスーパーリッチに行き、2万円を7400Bで両替。バスの73、と204で往復のバス代22B。.駅前では男女の2人の若い日本人が歌って、ギターを演奏してお金をもらっていました。まーいいさと僕もタイ人の若者につられて40Bを出しました。。女は一生懸命さを顔にだして歌っています、男は座って静かにギターをひています、全くうまいとは思えなかったのですが、日本人だったからでした。。。。
2012年04月15日
ナコンラチャシーマよ、また来るよ
コラート(ナコンラチャシーマの通称です)に到着した翌朝、早朝5時過ぎから街を見に歩いた。昨日は7・11の前に出ていた夜店の屋台でヌードルを食べて夕食にしたのだったが、その手前の広場が煌々と電気がついているのに気がついた。路上から奥にかけてずらーっと店が出ているのだった。野菜、果物、服、肉、揚げたお菓子もある、、生きたままの魚をさばいているし、煮物の各種の一品料理、食堂もあった。僕は卵を入れてもらいおかゆを注文する。何時の間に出現したのだろうと驚く、、昨日6時ごろには遊びでクレープを焼いているようなふざけあっていた2人ずれの女の子の屋台しかなかったのに、、、可愛いと思いクレープを買ってやりついでに7・11で買ったお菓子もあげたのだったが、、一人の女はコップンカー(どうもありがとうの手をあわせての感謝のポーズ)をしてくたのだった。。、夜から早朝の間に屋台村になったのだろう。道路の向かい側には2~3重の車の列、そして線路だった。工場に勤める女が大型観光バスに乗りこんでいく、CANON(日本のカメラ会社のだ)の制服もいる。トヨタのピックアップトラックが目立つ。タイ人の商売用に家族用にとNO1のもてもてぶりである。1日歩いてきた。。レンタバイクを探しながら、なかなか見つからないまま、大通りに出て延々と歩き、市バスにはどうして乗ったらいいのか分からず、面倒でもあったし、歩き、歩き、大汗もかいてアート・カレッジの近くまで行ったのだった。旧市街へも行けばよかったのだが、足が疲れてしまい、断念。。。その後ホテルでのアバンチュールとなったのだったか。。今思い返せば、彼女は1階に住む売春も引き受ける生活第1の子持ちの女だったのだろうか。生活の助けになるからと簡単に思えたのだろう。1000Bを下さいと僕の手帳に書いたのだった。コンドーサンは持っていません。60Bで買ってきます。と一度外へ買い物にでかけて、3袋入りの物をだしたのだったが、60Bもしたのだろうか。1袋しか使わなかったので2袋残って僕の財布にしっかりとしまいこまれたのだったが、、、、彼女が戻ってくるまでの時間、またバンコクの2の舞がありはしないかと疑心が兆したのだったが、1000Bの効果がでたのだろう、机の上に置かれたままの1000Bには手を触れず彼女は外へ走り、急いで戻ってきたのだった。。。僕は欲望にうろたえながら靴下の洗濯をして待っていたのだった。。ああ、感動、彼女の心はすれていなかった。嬉しい交流の時間になった。子供を生んだ、乳首がそのため、、、だと言い訳をする、心の可愛い女だった。明日バンコクへ帰ると僕が言うと、女も明日私もバンコクへ行くというのだった。えー?真似しているのか、僕の言うことを、、そうなのか、本当に彼女もバンコクへ行くのか、分からず確かめることはしなかったが、今思えば、一緒に残りの1週間でもいられるように心配りをしていたら、子供は引き受けてもいいと意志表示をし、日本での連絡先を教え、、、もっと知り合っておけば、、、今はもっと満ち足りた計画の立つ帰国になっていたろうと残念な思いがするのだった。。。。が、また来よう。。近くにはチャイヤプーンに住むブロガーの大御所さんが2人もみえるのです。(タイ生活9年目の女性の「イサーンに埋没中」というブログ、と剣道・武道の道の普及に邁進する60代男性のブログがあります)、ムスチクリさんはあいかわらず1人で日本語教師生活をしているようで、、最近更新が少なくなって、、、男はいないのか?という疑問があるのですが、それは彼女の心にまかせておきましょう。。。私の恋している好きな女性であります。。手をだしてはいけない人であります。。。タイ東北部の高原の街。バンコクのファランポーン駅から50Bの鈍行列車で来れる街。。。。また来たいと思います。。。。。そしてしばらくはさようなら。。。
2012年04月14日
コラートでの思い出
イサーンの入り口の大都市、コラートに到着。ここにはムスチクリさんが大学で日本語を教えているはずでした。24歳の山梨県出身の女性ブロガーであります。朝5時50分ウドンタニー発の列車に乗ってきたのでしたが、1日を早目、早目にスタートすることは正解です。朝、5時台には坊さんが托鉢にでているのを見かけることができましたし、トクトクには乗らずにすませて節約できましたし、、駅まで運動がてら歩くことができました。浮いた分で、駅前の7・11で熱いインスタントコーヒーを飲みます。ステックを破ってお湯を注ぐセルフ方式のものです。。これもおいしく、14Bでした。。。。ファランポーンの駅からどうせ行くのなら彼女に会ってみたいと思っておりました。。。もう1年以上前からブログを読んでいる人だったので愛着が湧いてくるのを抑えられないくらいの親近感がありました。。しかし、うら若い女性に見ず知らずの爺さんが会いに行っておかしなことになってもいけないし、、おかしな爺さんの突然の訪問は迷惑だろうと分別してやめたのですが、、それは無理だが、彼女の住む町だけは見てこようと思ったのでした。新市街の町の西側の駅で降りると、目の前に機関車が陳列されていました。思ったより駅前は小さく田舎じみて見えました。モタサイで40Bの中華系のぼろホテルに連れて行ってもらいました。150Bです。連泊にしました。そして、婆さんのフロント嬢は裏の建物だというのでした。古い木造2階建ての廊下も木でできていて、ギシギシ音を立ましたが、広さは十分で、トイレも部屋の中にあります。カーテンのある窓が3つもあり、網戸がつき開いたままで止めておけるようになっていました。向かい側には大きなアンテナが見える建物があり、窓の下は空き地になっています。。。。。僕にはこれで十分でした。廊下に出ると部屋掃除をする中年女性が働いています、彼女は実にニコニコ笑いかけてきて、トイレを掃除しようかと言いました。。その笑顔はとても魅力的でしたが、、、僕は着いたばかりで掃除するほど汚れて無いからいいというふうにジェスチャーしました。。そんなやりとりがあり、翌日も彼女は廊下にいました。。。そうして、、僕は催したのです、「来てくれ」というふうにトイレを覗かせました。。コンクリート製の水槽の中には何とぼうふらが蠢いていて、それに気がついたのは昨日の遅くで、思わず、あわわわ、、でしたので。。スポンジタワシでの掃除を頼んだのでしたが、彼女はいそいそと以前から分かっていたようにこなしてくれました。。。僕はそんな彼女が好きになり、黙ったまま20Bを差し出しましたが、、、彼女はさりげなく全く卑しさを感じさせずにポケットに入れると、、親しげに微笑むのでした。またもやの破裂でした。。。思わずHをsasetekureと僕は言ったのです。40は越えているだろうが年がいっている分経験もあるでしょうし、廊下には誰もいませんし、、十分可愛げのある顔をしていましたから。。。。でも、、、でした。。彼女は笑って去って行ってしまったのでした。そうして、時間が経ち、、、僕の部屋に来た女性がいたのです。。。。おー驚いたことに、感謝したことに、先ほどのハウスメイドさんが連絡したのか、教えて行けと言ったのか、(多分、、。。)10歳は若い女がHはOKというのでした。綺麗な服を着ていましたが、、赤ん坊がいるとも言いました。Hを無事させてもらいました。タイ人だと思いますが、色黒だったのでもしかしたらラオス人だったかもしれません。なにしろ土地が近いですから。。。タイ上陸以来初めてのHでありました。。。彼女には誠に感謝いたしました。買ってきておいた水と菓子パンもあげて、うやうやしく送りだしたのでした。。。。。こんなことを書いてしまう馬鹿さにお怒りでしょうが、、、一人身の僕には切実な問題でありました。タイ人とできれば安くいたしたいのでありましたから。。。大好きなタイ人でしたから、勿論幸福感に満ち溢れてしばし時を忘れてしまっておりましたです。。。。。。
2012年04月13日
ウドンタニーで連泊
5階からの夜の眺めは、ジャングルに囲まれた熱帯の、僅かに開けた土地であるかのように見えた。視線に入ってくる高いビルは先ほど断られたホテルに病院らしいものしかみえなかった。眼下一帯は暗く、遠くでカラオケの音楽だけが聞こえていた。そこら付近がようやく電気を点けてでもいるような光が見えるが、周囲は暗く沈みこんだ海のようにも見えた。そして、置屋の明かりを発見するのだった、、カラフルなテントの屋根と広場があり、その左右には個室が夫々1列並んでいた。若い女が時々広場を横切っていく、洗面器にタオル、らしいものを運んでいた、,、翌朝早くジーット観察していると、女たちは広場にシートを広げて食事をしたり、自分の部屋から汚れ物を運んでいたり、掃除をする女もいて、10人ほどが目撃された。そこは私の投宿しているホテルの真下にあり、偶然ホテルからの四方の景色を興味本位に見下ろしていて、発見したのだったが、廊下の突き当たりから見れるのだった。音をたてぬように廊下に出ると、僕は観察していたのだった。昨夜は置屋に違いないと思ったが、仕事の真っ盛りで、そうそうに部屋にひきあげたのだったが、目が3時には覚めると、廊下に忍び出て観察したのだった。SEXの残滓を引きずり、、、女たちは快活に笑っていた。トランプをする連中もいる、男の姿は見えず、女が鉄の門を閉めていた。。。女たち。。。これを見に行こうとノンカーイまで行くつもりだった。国境に住む売春婦達の住む置屋。取り仕切るヤクザと搾取されるラオス人女達と、いかれたタイ人女もいたりして、、、安い、、飛び切り安い春を買おうかとも思う男の一人の僕である。。。と思っていたが、上から見下ろしながら、彼女らの生活を目撃してしまうと、興味が薄れてしまうのだった。バンコクで思いを果たせてなかったのにそれはそれだよ、いいサーと思えたのだった。、昼間、置屋の前を歩く、休眠中だった。婆さんがスリープと言うのだった。門の外のベンチに3,4人ほどの若い女が50代くらいの男と腰かけていたが、仲のよさそうな寛いだ感じがしていた。協力して一緒に稼いでいる仲間のようだ、外人の僕が入っていけば、完全なお客さんだろうし、、やってみても、なんだか虚しいことだろう、、、と僕は即座に思った。。。。再びの夜、町の男らがやってきていた。ホテルに泊まった30~40代の男の5人ずれもそこから出てきた。僕の見ている眼下をホテルへ入ってくる。ホテル前の玄関付近は全くの路地裏である。赤茶色の地面が見える。朝には、幼女がホテルの前の大きな自宅の庭先で遊んでいたり、置屋の周辺に住む路地奥の年寄りの男女らが連れ立って鎌を持ち、草刈でもする様子で歩いていたり、ホテルのシーツや服が一杯干してある、、、、中国人という綺麗な顔の若い娘がフロントに座っていたが、英語が駄目そうで興味も失せる、、、部屋へこもってビアを飲んで寝ている。明日はコラートあたりで泊まろうと思った。僅か1駅先のノンカーイへ行くのに繋ぎが悪く面倒だった。。。ウドンタニーへ至るまでの草茫々の列車の窓に広がる景色が思い出される。これが、タイの東北部、イサーン。。どこもかしこも草茫々。。。十分にタイ国鉄は安く、コラートまで3等で5時間、56Bで行ける。が、途中の草茫々の景色に耐えなくてはならない。。。どこもかしこも土臭く、草深いタイの田舎の町、村々。。。。一方、、日本の田舎の垂井町でも家々山々が繊細だった、、車窓に牛などいないし、草地も十分に人の手が入っているし、川の水は清く流れている。。。日本は全てが整然とし過ぎているのだ、人も、土地も町も産業も、生き方も、、、それを破るためにわざわざタイへ来てるのだと僕は強く思う。。。、、時まさに、イサーンの大地の奥のウドン・タ二ーの駅前には今までに無い広大なセントラル・ショッピングセンターが完成しようとしていた、、タイ人の発展ぶりが伺えるのだが、、、ブログを書く人のいるコラートへ戻る。。。
2012年04月12日
ぼろゲストハウスでの受難は続いた
とにかく安ければよいと言う方針だったので、今度の「マダムズゲストハウス」は助かったのですが、。。。夜遅くまで、パーテーと主人の老婆はいい騒ぎ、猛烈なおしゃべりを薄い壁越しにやりだすのでした。階段下の部屋に窓はなかったし、勿論トイレもシャワーも共同、ファンはなく、イスの上に置いた扇風機がその代わりに置いてあるのでした。部屋は昔は1つの大きなのを分断して造ったものらしかったので、狭くただ寝るだけのための部屋としてなら妥当なレベルでしたか。。。ともかくまた寝ていたのでしたが、、、夜中、トイレに行った帰りにどーんと部屋に落ちてしまったのでした。部屋はフロアから一段低くなっていて、階段が部屋の入り口にはあったので、危うくひっくり返るところで、階段の脇にどけていたイスに乗っていたぼろい扇風機のコードに足を引っ掛け、床の上に落としてしまったのでした、ガシャーンと落ちて壊れました、羽がゴトンゴトンというようになり、大層な音がします、夜中の1時も回っていたのに、婆さんは起きていて、監視していたのか、スグサマ飛んで着ました。「500B!。壊したよ、、」というのでした。ばつが悪いのですぐにあやまりましたが、許されない事態でした。。。結局弁償させられ、、、1300円くらい出せば全くの新品を買えたのです。(その後、店を見て歩いたのでしたから確かです)、婆さんは金を取り、修理代だとも言わず、以前から故障で外してあった部屋の外に置いてあった別のぼろい扇風機と取り替えたのでした。。。修理すれば100Bかかるかと言う程度と思われるのでしたが、第一ぼろぼろ扇風機の残存価値はどれだけだーと言う程度に問題ないくらいぼろかったのですが、、、500Bを取りました。。。。もう、ここへきて僕は怒りが湧いてきていたのですが、高い泊まり代になったのでした。ドケチ。こんなぼろ扇風機が500Bもする物か!!と言う怒りです。宿の物を壊したからでしょうか。。。ボリヤガル事への怒りでしたが、、、、その日、もう1日泊まったのでした。まだバンコクでしなくてはならない用事もあり、、さすがに、2日目でしたのでお隣は静かにしてくれたのでしたが、翌朝、3月7日、5時には部屋を出ました。いよいよイサーン(タイ東北部)へ行こうと決めたのでした。ノンカーイへ。。ラオスとの国境の、ラオスの安い女性が春を鬻いでいる筈の置屋のある町。僕のイメージでした。。ファランポーン駅から出ます。。。が、列車はその手前のウドンターニーまでしか行かないのでした。。。。午前8時20分発、午後7時頃到着。。そうして、午後7時27分にはシャワーを浴びていたのでした。。。駅からトクトクで70Bのホテルへ連れて行かれたのでしたが、あいにく390Bで満室だと断られてしまいましたが、そのホテル前にはもう一台のトクトクが待機していたのでした。40Bでもっと安いホテルに到着、ファン、水シャワー、ツイン、で、5階の部屋でしたが、広くて眺めもよいのでした。なんと、160B。連泊しました。ようやく、バンコクでの悪夢は消え去ろうとしていたのでした。。。。来た甲斐があるというものです。すぐそこはまたしてものラオスでした。。。ここはベトナムWAR当時は米兵が続々と訪れ、歓楽街で鳴らした町でした。。。。


